終わりに
「札束の雨」を降らせた
バブル期の時価発行増資
「あの連中は流通市場のことなんか考えていませんから。大崩れしても知らんぷりです。しかしファイナンスというのは天から札束の雨が降り注ぐように手数料が入ってくるんですよ。だからどんなツケが来ようとも、やめられない」。
80年代後半、私が取材したある大手証券株式部の部長は、吐きすてるようにつぶやいた。
当時、大手証券は競い合うように、企業の株式による資金調達、または株式に絡めた資金調達を支援していた。企業の資金調達、さらにそれを支援することを総称して、彼らは「ファイナンス」と呼んでいた。
大手上場企業の場合、発行済みの株式が市場で売買されている時価に沿って新株を発行し、資金調達することが王道だった。この資金調達法を「時価発行増資」といい、業界内では縮めて、「時発」と呼んでいた。
時価発行増資は80年代から90年代前半にかけて、多くの企業が利用した資金調達法だった。そして1回での調達額が数百億円から一千億円以上に上ることも珍しくはなかった。証券会社は数社から数十社で構成されるシンジケート団を組んで、新規発行される株式を引受け、自社の責任で個人や機関投資家に販売した。この「引受け」という方法は、株式を発行する側の企業にとっては、売れ残りのリスクがなく、予定した通りの資金を調達できるというメリットがあった。一方の証券会社側にとっては、販売に責任を持つ(万一、売れ残った場合は自らが保有する)ことで、高率の手数料を徴収(引受け手数料という)することができるというメリットがあった。当時の時価発行増資の引受け手数料は発行額の5〜7%程度が相場だった。これは今日、株式市場で大人気のIPO(新規公開株)における新規公募株引受け手数料とほぼ同水準である。
仮に1000億円を調達目標額とする時価発行増資であれば、シンジケート団が受け取れる手数料額は50億円から70億円程度に上る。5割程度のシェアを握ることになる主幹事証券の場合、25億円から35億円程度が得られるということだ。実際の仕事は、本店、支店合わせて200人〜300人程度の社員が1週間前後、電話セールスで生保や年金など機関投資家、そして個人投資家に勧誘電話を入れるくらいである。これで一人頭約1000万円の手数料が入ってくるのである。前出の大手証券部長が認めるように、「天から札束の雨が降り注ぐ」ような暴利とみなされても仕方がないだろう。
バブル期になぜこれほど高額の手数料を業者に与える時価発行増資が流行したか、厳密には「可能だった」かといえば、それはいうまでもなく「株価が上昇を続けていた」からである。
「時発」の情報収集に奔走した
大手銀行、生保の内情
89年の大納会で、日経平均株価が3万8915円の最高値をつけるまで、戦後の株式市場は基本的に右肩上がりが続いた。つまり「持てば必ず利益が得られる」のが「株」だったのである。この神話が続く限り、時価発行増資によって新たに株式が発行されても、それを「持とう」、つまり「買おう」とするものが現われ続けた。
ではバブル期、企業の時価発行増資が行われる際、最も敏感に反応したのは誰だったのだろうか。当時、多くの個人投資家が、「ファイナンス」銘柄に飛びついたことも確かである。だが最も熱狂的に反応していたのは、銀行、生保、中でも大手銀行は異様なほど買い意欲が強かったと、私は今日まで確信している。
住友銀行の「収益第一主義」に盲従した大手銀
時価発行増資絡みでバックファイナンス
「またS銀行の担当者から電話がかかってきましたよ。『時発の情報はありませんか』とね。もう毎日ですよ。まあ、簡単に教える義理はありませんけどね」。当時、懇意にしていた中堅証券の泉証券のI情報部長(業界内の方であればピンとくる方が多いはず)は、辟易した声で電話越しによくいったものである。
当時、大手銀行が株式の時価発行増資に強い関心を抱いていた理由ははっきりしている。「金余り」だったからである。80年代から日本の金融業界は本格的な自由化がはじまり、様々な競争が行われるようになった。筆頭を走っていた当時の住友銀行が打ち出していたのが、「収益第一主義」である。
とにかく儲けた銀行が「勝ち組」であり、業界内で一目置かれるとともに、監督官庁である当時の大蔵省との様々な交渉でも優位に立てる。その優越感を得たい一心で、大手銀行は競争に明け暮れた。
競争の指標とされたのが、「経常利益」や「業務純益」。銀行がこれら指標を上向かせるためには、貸出しによる利ざやを稼ぐのが最も直線的なやり方である。このため、大手銀行はその原資として個人や法人からの預金だけではなく、短期金融市場での外部調達まで活用していた。貸出し競争が激化していたため、一般的な貸し出しの場合、利ざやが薄く、どうしても「量」を追及せざるをえなかったためである。当時、大手銀行の預貸率(預金量に対する貸出額の比率)は100%を超えているのが当たり前だった。
では大手銀行は集めた資金をどう貸し出していたか。実は最も「お得意様」であるはずの大手企業は、先述したような株式絡みの資金調達(ファイナンス)に傾斜していた。「銀行から借りるよりも市場から」が合い言葉だったといってもいい。
貸し出し競争の真っ最中であるにも関わらず、肝心のお得意様である大手企業が借り入れを敬遠して市場からの調達を選択することは、大手銀行にとっては困った事態だった。そこで彼らが考えついたのが、大手企業が市場から資金調達する際、その資金の出し手に融資するというものだった。これは、形を変えて大手企業に融資するに等しいといっていい。
形を変えた融資。時価発行増資が行われた際、大手銀行がとった行動は、価格変動が激しい株式という「リスク商品」に対して、預金という元本保証が求められる商品の資金を投入したことである。その結果が、公的資金注入に至るあの金融不安だった。
時価発行増資の多額の引受け手数料に目がくらんだ大手証券、そして「向こう傷は恐れるな」とばかりに、形を変えた融資を行った大手銀行。この2つの存在が、日本株大崩壊の「犯人」に含まれることは疑いようがない。
10年間に渡る日本株大暴落の歴史を完全に検証することは困難である。
4万円が1万円以下と4分の一以下になった無惨な相場は必然だったのか。私は機会を改めて、その経緯を詳しく紹介したいと考え〜
2005年9月
テクノディーラー主幹
川野英彦